notepinは、タイトルをつけなくていいから気楽だ。フォロー機能も「いいね」も、PV機能もない。数字に踊らされる日々から少し距離を置けるはずだが、それでもすぐに飽きてしまいそうな気がする。承認がない場所に自分の居場所を感じ続けることは、案外難しいのかもしれない。
外は雨。台風が近づいているらしい。気分転換に、室内から出したことのなかったポトスを試しに室外機の上に置いてみた。すると驚くことに、家の中で見るよりずっと凛々しく見えた。普通なら逆のはずだが、雨風にさらされたことで、堂々とした顔つきになったのだろう。
「逆」について思い出したことがある。承認欲求が強い自分を責める人に対して、「まずは承認する側に回ってみてはどうか」と語る人がいた。自分が認められたいばかりでは、うまくいかないのだという。
この言葉は、すっと胸に落ちた。
書いた、撮った、見てもらいたい。できれば「いいね」も欲しい。だが、数字にばかり意識が向いてしまうと、その投稿からはどこか緊張感がにじみ出る。「見てほしい」「認めてほしい」という焦りが言葉や行動に染み出し、まっすぐ人を見られなくなる。
誰かを好きになったとき、じっと待っているだけではうまくいかないことの方が多い。先に好意を示し、先に動くことが求められるのだろう。でもそれが難しいのは、どうしても「受け取ること」に意識が偏ってしまうからだ。
「俺はいらないから、君が持っていって」と行動できる人は、巡り巡って多くのものを受け取っているように見える。
もしかすると、私たちは「与えること」にどこか臆病になってしまっている。資本主義というと大げさだが、日常の中で「等価交換」に飼い慣らされている。たとえば、トマト一個に150円と書かれていると、「ちょっと高いな」「100円だったら買うのに」と思う。心の中で「払った額と得る価値が釣り合っていないと損をしたように感じる」感覚が働くのだ。
この感覚はいつの間にか人間関係やSNSのやりとりにも染み込んでしまった。「これだけ発信したんだから」「こんなに頑張ったんだから」と自分では思っていても、相手が本当に欲しいものを与えられていなければ、見返りが返ってくることは稀だ。
そもそも、作るという行為は“誰かに与えるため”だけに生まれたわけではなかった。自分のために、自分が作りたいから作る。その満足感だけで充分だったはずのものが、ふと誰かの反応に晒された瞬間、「これだけやったのに」という悲しみに変わる。
このズレこそが、見返りを求めてしまう心の正体なのだろう。
「与える」という言葉がどこか偉そうに感じられるのは、本当は自分のためだったものを、いつの間にか“他者のため”にすり替えてしまう不自然さを、どこかで知っているからかもしれない。
そして、恋愛においても同じことが言えるのだと思う。
「ほしいから待つ」が通用する年齢は、もう終わっている。だからこそ自分から動き、先に差し出すことが求められるのだろう。受け取ってもらえるかはわからないが、それでもなお、自分から始める姿勢を持てるかどうかで、内側の孤独や認められたい気持ちの行き先が変わってくるのではないか。
もちろん、人には好き嫌いがある。嫌いなものを無理に好きになるのは難しいし、自分を根本から変えることも簡単ではない。でも、視点を少し変えることならできるかもしれない。
あるツイートが胸に残っている。「“この人、人間できてるなあ”と思う人は、たいてい一度はメンタルが崩壊している。本当にメンタルが強い人とは、“人の気持ちがわからない人”のことだ」と。
一度崩れた経験があるからこそ、人に優しくできる。認められたい気持ちを知っているからこそ、誰かを認めることができる。
ポトスは、外に出して初めて堂々とした顔つきになった。雨や風にさらされたからこそだ。自分の中の「承認欲求」や「恋愛感情」も、少し雨風に当ててやることで、いつか柔らかくなれるのかもしれない。