みつもりの秘密基地

生存戦略研究所

19th July 2025

一日中、どうしようもなく寂しかった。なんでこんなに寂しいのか、自分でもわからなくて、もがいた。

スマホばかり触ってるせいで脳が疲れてるのかも、と思って寝室にひとりでこもる。灯りを落として、ぼーっとしていたら、ふと胸のあたりがちくちくちくしてきた。孤独感が、物音ひとつ立てずに忍び寄ってくる。なにもしていないと、それはそれで、思い出したくもないことが次々に浮かんでくる。

夜風を浴びたくなって、スマホをベッドに置いたまま、パートナーに「ちょっと出てくる」とだけ声をかけた。21時ごろ。財布だけ持って、ふらっと表へ出る。

外は意外と涼しくて、気温がちょうどよく、もう少し歩いてみたくなる。音がして、空を見上げると、飛行機が右から左へ流れていく。民家の門の奥。ふだん目につかないところ。歩くリズムにあわせて、生垣に指先でふれると、子どものころにも同じことをしていたな、と思い出す。

カメラがないから、写真に残すことはできない。でも、そのぶん、目の奥に焼きつけるように景色を見る。撮らなかった景色のほうが、ちゃんと覚えてる。そんな気がしていた。

なんとなく最寄りのスーパーへ向かう。レジに並びながら、ああ現金しかないな、と思う。小銭が出ると、結局また財布がふくらんで、あとで邪魔になるんだよな、と思っていたら、クレカを持っていたことに気づく。それで支払った。

ふと、昔の記憶が蘇ってくる。地方を転々と旅していた時期があった。あの頃は絶望的にお金もなくて、古いタブレットだけを持ち歩いていた。モバイル通信もないから、ファミレスで必死にWi-Fiを探しては、ツイートやブログをなんとか更新していたものだ。

でも、なんだか虚しくて。家に人がいること、ネットがあること、そのありがたさに気づく。当たり前みたいなものが、帰り道にだけ輝いて見える夜だった。

今朝、起きて、ほとんど無意識でスマホを手に取り、Twitterを開いた。タイムラインに、久石譲の「Summer」に合わせたショートドラマのようなMVが流れてきて、なんとなく再生した。高校生の夏休みの青春を切り取ったような映像だった。

「俺には、こういう青春がなかったんだよな」とだけ、思った。

17th July 2025

誰かと距離を置くことで楽になることは、たしかにある。連絡をやめたら少し気が楽になったとか、会わないことで自分を保てるようになったとか。そういう「離れることでしか保てない自分」もあると思う。

でも、時間が経っても、何かが引っかかったままの相手がいる。忘れようとしても、ふとした瞬間に思い出してしまう。夢にまで出てきたり、似た言葉や風景に触れたとき、胸の奥にチクリとくる。そういう相手がいるなら、ちゃんと向き合ったほうがいいんじゃないかと思うようになった。

それは、もう一度仲良くなるとか、元の関係に戻るとか、そういう話じゃなくて。「自分がどうしたかったのか」「何がずっと引っかかっていたのか」を確かめるような時間が、自分のためにも必要なのかもしれないという話だ。もしかすると、相手に何かを伝えたかったのに飲み込んだままにしていたのかもしれないし、言葉にしないまま誤解を広げてしまったのかもしれない。いずれにしても、「話すことすらもう無理」と思っていた自分のなかに、実は「本当はちゃんと話したかった自分」がいたことに気づいたとき、あのもやもやの正体がようやく見えてくる。

向き合うって、何もドラマみたいに劇的なことじゃなくてもいい。ただ、あのときの自分の本音に耳を澄ませるだけでもいい。それでももし、相手に話したいことがまだあるなら、それを言葉にして届けてみる。結果がどうであれ、それでようやく、次の自分に進めるような気がしている。

15th July 2025

notepinは、タイトルをつけなくていいから気楽だ。フォロー機能も「いいね」も、PV機能もない。数字に踊らされる日々から少し距離を置けるはずだが、それでもすぐに飽きてしまいそうな気がする。承認がない場所に自分の居場所を感じ続けることは、案外難しいのかもしれない。

外は雨。台風が近づいているらしい。気分転換に、室内から出したことのなかったポトスを試しに室外機の上に置いてみた。すると驚くことに、家の中で見るよりずっと凛々しく見えた。普通なら逆のはずだが、雨風にさらされたことで、堂々とした顔つきになったのだろう。

「逆」について思い出したことがある。承認欲求が強い自分を責める人に対して、「まずは承認する側に回ってみてはどうか」と語る人がいた。自分が認められたいばかりでは、うまくいかないのだという。

この言葉は、すっと胸に落ちた。

書いた、撮った、見てもらいたい。できれば「いいね」も欲しい。だが、数字にばかり意識が向いてしまうと、その投稿からはどこか緊張感がにじみ出る。「見てほしい」「認めてほしい」という焦りが言葉や行動に染み出し、まっすぐ人を見られなくなる。

誰かを好きになったとき、じっと待っているだけではうまくいかないことの方が多い。先に好意を示し、先に動くことが求められるのだろう。でもそれが難しいのは、どうしても「受け取ること」に意識が偏ってしまうからだ。

「俺はいらないから、君が持っていって」と行動できる人は、巡り巡って多くのものを受け取っているように見える。

もしかすると、私たちは「与えること」にどこか臆病になってしまっている。資本主義というと大げさだが、日常の中で「等価交換」に飼い慣らされている。たとえば、トマト一個に150円と書かれていると、「ちょっと高いな」「100円だったら買うのに」と思う。心の中で「払った額と得る価値が釣り合っていないと損をしたように感じる」感覚が働くのだ。

この感覚はいつの間にか人間関係やSNSのやりとりにも染み込んでしまった。「これだけ発信したんだから」「こんなに頑張ったんだから」と自分では思っていても、相手が本当に欲しいものを与えられていなければ、見返りが返ってくることは稀だ。

そもそも、作るという行為は“誰かに与えるため”だけに生まれたわけではなかった。自分のために、自分が作りたいから作る。その満足感だけで充分だったはずのものが、ふと誰かの反応に晒された瞬間、「これだけやったのに」という悲しみに変わる。

このズレこそが、見返りを求めてしまう心の正体なのだろう。

「与える」という言葉がどこか偉そうに感じられるのは、本当は自分のためだったものを、いつの間にか“他者のため”にすり替えてしまう不自然さを、どこかで知っているからかもしれない。

そして、恋愛においても同じことが言えるのだと思う。

「ほしいから待つ」が通用する年齢は、もう終わっている。だからこそ自分から動き、先に差し出すことが求められるのだろう。受け取ってもらえるかはわからないが、それでもなお、自分から始める姿勢を持てるかどうかで、内側の孤独や認められたい気持ちの行き先が変わってくるのではないか。

もちろん、人には好き嫌いがある。嫌いなものを無理に好きになるのは難しいし、自分を根本から変えることも簡単ではない。でも、視点を少し変えることならできるかもしれない。

あるツイートが胸に残っている。「“この人、人間できてるなあ”と思う人は、たいてい一度はメンタルが崩壊している。本当にメンタルが強い人とは、“人の気持ちがわからない人”のことだ」と。

一度崩れた経験があるからこそ、人に優しくできる。認められたい気持ちを知っているからこそ、誰かを認めることができる。

ポトスは、外に出して初めて堂々とした顔つきになった。雨や風にさらされたからこそだ。自分の中の「承認欲求」や「恋愛感情」も、少し雨風に当ててやることで、いつか柔らかくなれるのかもしれない。

14th July 2025


アマプラで『悪い子バビー』を観た。パートナーが観てみたいというので。手元にはじゃがりこがあるし、久しぶりの映画だから、お酒を飲みたいなと思ったが、ウイスキーしかない。コークオンアプリでドリンクチケットを使って近所の自販機でコーラを買い、コークハイを作る。猫好きは要注意と書かれていたこと、主人公が35歳まで引きこもりとして育てられたというあらすじを聞かされていたので、「酒と合うのか?」と緊張しながら再生したら、さっそくゴキブリが出てきて心臓がざわついた。直後に母親との近親SEXシーン。まるで時計じかけのオレンジを彷彿とさせる世界観。悪い子バビーは悪い子だったのかもしれないが、一緒にいたら楽しそうだなと思った。自分が邦題をつけるとしたら、「ロックンロール・バビー」にするかもしれない。どう考えてもカップル向けではないが、カップルで観ることになってしまったのだ。

13th July 2025


バナナケーキをパートナーと一緒に食べてたら、俺のほうを何口かフォークでつついて、「こっちのほうがおいしい」って言うのよ。同じものなのに、笑。

「隣の芝生、青すぎない?」って返したら、ふたりで笑った。でもなんか、そういうのが人生だなって思った。自分のじゃないものがよく見えて、でも結局、誰かと笑えたら、それで十分だって。